「全国老人クラブ連合会会長表彰の坪井若草会会長会員が一致団結
「継続は力なり」伊藤克彦さん
途中でやめたら評価されなかったでしょう。継続は力なりですね」
そう話すのは、坪井地域のボランティアとして活動する老人クラブ「坪井若草会」の会長・伊藤克彦さん。同会は、坪井の森緑地を毎朝清掃するなど、地域の懇親会としてだけでなく地道なボランティアを15年間続けてきた。その活動が評価され、今年1月には県知事表彰され、今月17日には全国老人クラブ連合会会長表彰を受ける。
同会の設立は、1994年に地域の老人会が解散してしまい、新たな親睦の組織が欲しいと自治会に要請があったのがきっかけだ。水道整備の陳情など地域の活動に取り組んでいた「頼まれたら断れない性格」の伊藤さんがとりまとめて発足した。
現在、会員は89人。全国的に老人クラブの会員が減少傾向にあるなか、メンバーは減っていない。「みんなの趣味も活動に生かしているからかな」。
会の活動は社会奉仕以外にもグランドゴルフ、ダーツ、大正琴など多彩だ。会報も7年前から毎月発行し、今ではパソコンもお手のものだ。ほとんどの活動は始めてから現在まで継続している。
毎朝の森の清掃を始めた10年前は放置ゴミがゴミを呼び、うっそうとしていた。だが、今では憩いの森として生まれ変わっている。「ラジオ体操のついでに始めたのだけどね。それに本気でやっていれば、みんなが助けてくれるものだよ」と伊藤さん。
当初は、なぜ表彰されたのだろうと考えたが、今では「会員が一致団結して取り組んだ結果」だと思っている。「一人の力では、できないことは多い」。その言葉に力強い響きがあった。
ベイエリアの身近な風景を描き続ける
小森雄二さん
「一期一会」を大切に 自然なタッチ心がけ

自身「スケッチのホームグラウンド」と呼ぶ、湾岸周辺の景色や人々を描いた、個展「湾岸(ベイ)エリアの風景」を開催中だ。海浜幕張のオフィスビルやホテル、ふなばしアンデルセン公園で憩う人…など、私たちになじみの風景ばかり40点。丸みを帯びたタッチと独特の配色で「その場に漂う物語」を表現した。
福岡市生まれ。大学進学と同時に上京した。文学好きもあって、卒業後は出版社に入社。編集業務では挿し絵などに触れることも多々あった。
読書家の一方で、山や海に足繁く通う「アウトドア派」。自然が織り成す景色を数え切れないほど見た。
「この夕暮れのさびしさを、どんなかたちで表現できるだろうか」
表現手段が「絵」だった。ときに60歳。時間の余裕もでき、「それまでの人生の場面を追いかけるように」筆をとった。
「美術とは違う、絵が描きたい」。求めたのは大げさな誇張のない自然なタッチ。
次第に視線は「自宅近くに向いた」。観察してみると、公園の落ち葉や池の波紋、日中住宅街で遊ぶ子どもたちなど、街は魅力的な素材で溢れていた。以来、「生活の大半は絵のことを考えている」。
「一期一会」を大切にしている。相手が乳飲み子でも、「モデルをお願いできますか」と声をかけると「通じ合う瞬間」がある。そうやって1枚1枚の「物語」が生まれる。
◇5面「ギャラリー欄」に展示会情報。
再結集した「劇団PIECEofPEACE」代表
木許宏美さん
新たな感性を育み 劇団仲間が再結集

「あなたの笑顔にお会いできることを、心よりお待ちしております」。ハガキ大の公演チラシにそう書かれている。
00年に旗上げした劇団「PIECE of PEACE」。3年半前、活動の幕を降ろした仲間たちが再集結し、今月19日、鎌ケ谷市中央公民館で上演する。
空白はあったが、劇団発足10周年。演目は、演劇集団キャラメルボックスの舞台で知られる『すべての風景の中にあなたがいます』。ほんの数分の、一度きりの出会いから始まる切ないラブストーリーだ。
「再び舞台の幕は開くが、芝居に向かうすべての時間がいとおしい」
リプレーの利かない舞台というライブの経験でこそ知る「時間の大切さ」を、木許さんはそう表現する。
埼玉県生まれ。8歳で鎌ケ谷に越してきた。五本松小、鎌ケ谷中を経て県船橋高に進学、演劇部に入った。大学で心理学を専攻し、20歳で高校時代の仲間たちと劇団「PIECE of PEACE」を旗上げした。
卒業後もデザイン会社、カメラマン補助などの本業のかたわら劇団は続けた。「仕事の現場で出会う相手の動きを察知しそれに応えるうちに」、役や演技の幅が広がった。
しかし、就職や結婚など団員の事情の変化で、07年1月公演を最後に活動を休止した。ところが、木許さん自身の芝居に対する情熱は衰えるどころか募る一方。劇団結成10周年を機に「いましかない」と、仲間たちに声をかけると「私同様、情熱は冷めていなかった」。
「同じような演目を同じメンバーで演じても、10年前と今とでは全く違う芝居になる」。空白の途中で得た実社会での経験が新たな感性を育むという。
再結集とはいえ、一度きりの公演。「今、ここにいる」からこそできる等身大の演技で、精一杯の舞台をみせる。
はえぬき演奏家に 活躍の場づくりを 県内の音楽文化を支える音楽プロデューサー
松本浩さん
音楽プロデューサーとして、その肩書きは枚挙にいとまがない。
ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉の前事務局、船橋市ロビーコンサート審査員、船橋市芸術文化ホールの芸術アドバイザー…。
「すべては最高の演奏が生まれるために」
県内のホールで、年40本以上のクラシックコンサートを企画し、質の高いクラシック演奏会の開催に奔走する。
指揮者の個性を見極めた選曲、演奏メンバーの形態に合わせた編曲、観客の感情を盛り上げるための曲順、ホールの状態に合わせた本番までのスケジュール…。一言に音楽プロデューサーといっても、本番までの行程は多岐に及ぶ。これらを「ひとつひとつ積み上げ」ながら、「最後は演奏者に委ねる」。
中学卒業後、実は「エンジニアを目指して」工業高校機械科の道を選んだ。ところが、ギター部に入部すると瞬く間にそのとりこになった。
「ギターのプロになりたい」とまで切望するようになり、周囲の反対を押し切り足洗学園音楽大学へ進学した。そこにギター科はなかったが、「とにかく音楽なら」とチェロを学んだ。
アルバイトで学費を捻出しながら研さんする一方で、「ハーモニーの楽しさ」を知り、次々と演奏会を企画。気がついたときには「裏方が本業に」なっていた。
現在、「地元の若い芽を地元で育てたい」と、県内で育った若手演奏家が地元で活躍できるような仕掛けづくりに取り組んでいる。
コンサートは生もの。ときに「予想以上の感動が生まれる」。それがプロデュースの醍醐味、と。
有機栽培による地産地消を試みる新規就農者
山田勇一郎さん(29) 大神保町
命の循環に寄り添う農業
完全な「地産地消」目指し
「命の循環に寄り添う」。農業の魅力をそう切り出した。
3年前、26歳の若さで農業に新規参入した。自然の循環システムの力を生かした有機栽培による地産地消を試みる。
「まずは土地を健康にしてやることから」と、畑で雑草を育てた。農家なら誰もが嫌う雑草だが、実は、自然農法になくてはならない。やがて枯れた雑草は、微生物に分解されて土へと還る。手間のかかる行程だが、そうして土に還った雑草は、リンや窒素などの栄養素を含んでいる。自然界には、野菜を食べる虫とそれを食べる虫がいる。そうした食物連鎖という自然界の原理を利用するだけで、農薬を使わない農業が可能となる。
「大切なのはバランス」。自然界の均衡を保つ手伝いが、山田さんの考える農家の仕事だ。「理想の畑」は、あらゆる生物がすむ「森」という。
田喜野井出身。子どものころ、畑で土器を探して遊んだ。20歳のころ、「どう生きるべきか」悩み、バックパッカーで世界中を旅し、ブラジルの果物農場へ辿りついた。そこで、農民たちが自ら育てた作物を、農薬を怖がって食べない現実を目にした。そんな矛盾に納得できず、帰国して有機栽培で有名な農場の門を叩いた。そこで、牛や鶏を飼い、その糞を肥料にして無農薬で作物を作り、その作物を地域で消費する、地域に密着した農業を学んだ。
「あとは育った船橋で実践するだけ」と、大神保町の畑を借り、新規就農者となった。
現在、市内の豆腐屋で出たおからを肥料にし、育てた作物は市内限定で販売している。肥料と耕作地と消費者を地域でまかない、エネルギーを循環させる農業スタイルに向けて一歩踏み出した。
一歩ずつ、理想に向かいながら、こう言う。
「一日の終わりに感じる疲労感が、最高に心地よい」
国内にある峠の写真を撮り続けるカメラマン
金ヶ江利行さん
情念行き交う場に魅せられ
北から南へ、越えた500峠
映画や文学の背景、時には戦況を左右する歴史の舞台となった峠。国土の7割が山間部を占めるわが国には1万に及ぶ峠があると言われる。
「人々の顔がそれぞれ異なるように、峠にも各々の顔がある」
その存在に魅せられ、北海道『知床峠』から鹿児島県『耳取峠』まで500ヵ所以上を巡って撮影を続けている。
「空気や獣など多様なものが行き交う峠には、『切ない』『愛しい』といった情念がよく似合う」
その思い入れの深さは、「山は神が休む場所」と崇めてきた、古来よりの日本人の情念そのもの。
トンネルがない時代の山越えは、未開の地に足を踏み入れることを意味した。テント泊が続く撮影の旅だが、感じる危険以上に期待感が勝った。
21歳のとき、カメラマンに憧れ佐賀県伊万里市から上京。船橋に居を求め写真を学んだ。1952年のメーデー事件で有名な写真家川島浩氏、三浦章氏に師事。バブル崩壊を機に転職したが、再びカメラを手に取り登山愛好家の同僚に誘われ向かったのが冬の南アルプスだった。
登れど終わらぬ新雪の山道を「やっとの思いでたどり着いた『夜叉神峠』。目前にあったのは「ご来光」。その美しさに目を奪われ、息つくひまなくシャッターを切っていた。
以来、愛犬『龍馬』とめぐる、峠の撮影の旅がライフワークとなった。
そこで知ったのは、受け継がれる地域文化と信仰心。五穀豊穣を願う「手向け」に遭遇したり、峠にまつわる伝説を地元住民から教わることもしばしば。そして、自らもその場に手を合わせるのが習慣となり、いつしか「撮らなくちゃ」の気負いがなくなった自分が峠に立っていた。
アコーディオンを弾きながら「歌う」楽しさ伝える
ないとうひろおさん
歌は本能的な自己主張
「大切に歌い継ぎたい」
「♪春のうららの隅田川…」。滝廉太郎の「花」が会場に響いた。船橋市東部公民館で行われた「うたのひろば」。集まった約150人の参加者が、ないとうさんの指揮とアコーディオンに声を合わせた。
「人に聴かせるわけじゃない」と思えば、肩に力が入ることはない。そんな指導法が好評で、ないとうさんが関わる「うたの集まり」は現在、船橋市内などで9ヵ所に広がった。
音の強弱、音記号の意味や息つぎしやすい休符の位置など、「作曲者の意図すること」まで指導は細部にわたる。
約12キロのアコーディオンを長時間背負っても「苦にならない」。歌う人たちと音楽を表現することでエネルギーがわいてくるのだという。
東京下町生まれ。隅田川のほとりで幼児期を過ごした。「何不自由のない生活」だったが、第2次世界大戦勃発で茨城県に疎開、遠くから赤く染まる東京の空を眺めた。
戦後、ピアノもオルガンもない仮校舎でハーモニカを習った。卒業式で聴いた「蛍の光」。「どんな仕組みで音を重ねれば、あの響きになるのか」。それが知りたくて和声楽について調べた。
分かったことは「歌は、本能的な自己主張のようなもの」。それぞれの歌詞から読み取れる「別れの気配や大きな愛情」は、その人の生活や情況と関わってくる。それぞれの人生経験の中に歌は生きており、音楽指導を通して、「自分で歌いたいと欲している人は少なくはない」と感じている。
「誰でも知っている世界の民謡や名曲を、自然や平和をいつくしむ歌として歌いたい」
戦争を知る世代が、平和を心から願いながら、「一つ一つの曲を大切に歌い継ぎたい」と考えている。
生徒とのスタンスは
「知的探究心の喚起」
科学技術系人材育成SSH担当県船橋高教諭
尾竹良一さん(46)
「失敗を繰り返しついに発見する、それが理科研究のだいご味」
未来を担う科学技術系人材育成へ、理数系教育の充実を図る「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)」。文科省の指定を受けた県船橋高の担当教諭。昨年は教え子の大月亮太さんが国際生物五輪で日本人初の金メダルを獲得した。
研究は、仮説と実験を繰り返し、やがて行き詰る。そのとき「少し離れた場所から生徒へアドバイスする」。それが教師の役目という。
「主役はあくまでも生徒だが、研究のスタートラインは、私も生徒と同じ立場」。この同じ目線は、尾竹さん自身が現役の研究者のせいだ。
年に一度、カモノハシの調査研究のためオーストラリアへ行く。爬虫類から哺乳類の進化の途中で生まれたとされる、謎が多い生き物。
夜行性で水中生活が中心のカモノハシの姿を肉眼でとらえるのは難しいとされ、チャンスは日没前後の1時間。呼吸のためにだけ水面に現れるが、臆病で体全体を確認するケースもまれという。
長年、現地へ通い続け、そんなカモノハシの姿を間近で観察できた瞬間があった。
このとき「研究ってこういうもの」とわかった。
一生をかけて研究したいテーマと出会い、尾竹さんの授業は「教える」ことから「知的探究心の喚起」へ変わった。
「他者との比較ではなく自分自身が満足できる研究をしてほしい」
この教え子たちとのスタンスが、まさに、国際的に通用する創造性豊かな人材育成を目指すSSHの担当教師に相応しい。
飯山満を9年間撮り続けたアマチュア写真家
中川迪生さん(75)
新旧混在の面白さ
残したい風景あり
区画整理された更地で携帯電話を操作する男と犬―ありきたりの感覚では、写真の被写体としては成り立たないような街の日常を、9年間撮り続けた。
4月6日から船橋市民ギャラリーで開かれる写真展「飯山満(はさま)」は、東葉高速鉄道開通などで急速に変化した、船橋市飯山満町のありのままを切り取った写真65枚を展示する。
「新旧が混在する面白さがある」
東京に通う会社員だった。定年退職後、家の周りを初めて散歩したとき、「驚いた」。船橋に住んで30年ほど経つ。それまで見えなかった、畑、雑木林、ほこらなど、昭和の香りがする懐かしい風景が広がっていた。
「今のうちに、せめて写真に残したい」
一眼レフを手に、飯山満をくまなく歩いた。
畑の中の道祖神、鳩小屋、肥だめをのぞく子どもたち、かやぶき屋根の家とパラボナアンテナ、マンションに取り囲まれた火の見やぐら…。
住宅地のなかで、ひっそりと残されていたものに目が留まり、夢中でシャッターを切った。001年から9年間で撮影数は6千を超えた。すでに失われた風景も数多い。
かつては「寝に帰るだけだった」現住地が、ファインダーを通して見ることで愛着に変わった。
「地元の良さを発見するきっかけになれば」
写真を通して、中川さんは地域とつながっていきたいと考えている。
城郭から船橋の特性を見つめる
福嶋研一さん(66) 大穴北
地元の歴史掘り起こす定年後の新鮮な出会い
「船橋にも城跡はある」
福嶋さんによれば、八木ヶ谷城、金堀城、小野田城、楠ヶ山城など14ヵ所。「多くは崩れてしまっているが」、中世、戦国時代、複数の館主が自分の陣地を守るために盛土し溝を掘り備えた。
「城郭は土くれ。その素朴さが面白い」
城郭研究家として、昨年、船橋市内の公民館主催講座の講師を務めた。
城といえば普通、天守閣・石垣・掘の3点セットを思い浮べる。現存する天守閣の多くは観光用に復元されたもの。
一方で城郭は、保護を受けずにひっそりと、町の風景に埋もれていることが多い。その残されたわずかな形跡から「当時の戦略、武士の知恵を見出す」のが城郭の魅力だ。
城郭を見ると、「戦いを生き抜くことに必死だった」様子がわかってくるのだという。
城郭に魅せられたのは、小学生の遠足。新潟・五頭山に登ったとき、斜面の途中に平らな場所があった。その不自然さは、「くるわ」という防衛陣地の場所だと知った。地形から当時の武士たちの緻密な計画が想像でき、子ども心にロマンを感じた。
35年前、船橋に越してきたときは、「城のないところに来てしまった」と思った。しかし定年が近づき時間的余裕ができ調べてみると、意外にも、多くの城郭が点在した市域であることが分かってきた。
「普段は見過ごしているものがたくさん。船橋も掘り起こせば、面白いものはある」
会社員時代は、1日の大半を勤め先の東京で過ごして、船橋は寝に帰るだけの場所。だから船橋については「知らないことだらけ」だった。そのことが返って、「定年後の新鮮な出会い」につながった。
音楽は言葉より雄弁ハッピーになる歌を
期待のジャズシンガーが地元でコンサート
中溝ひろみさん
「皆さんがハッピーになれる歌を歌いたい」
来月、葛飾公民館でコンサートを開く。
08年、「浅草ジャズコンテスト」ボーカル部門でグランプリに輝いた。約30年の歴史がある日本の代表的ジャズコンテストで、100組以上の応募の中から見事勝ち取った実力派だ。
「そこにいる人みんなの気持ちがいい方向へ動き出すような歌を」
その透明感ある声で、客、共演者、スタッフと、会場の全てを包み込む。
小学校で合唱部、高校で声楽を学び、東京学芸大音楽科へ進んだ。
クラシック畑からジャズへの転機が訪れたのは学芸大在学中。日本を代表するジャズギタリスト・宮之上貴昭が開くジャズクラブ「きりきりぶらうん」でのアルバイトがきっかけだった。毎週末、プロアマ老若男女を問わず、ジャズセッションが行なわれる場所。そこで知ったのは、「全く年齢の違う人でも、一緒に音を出せば会話が一瞬で成立する」ことだった。
「その人の音を聴いて、新たな気持ちで音をつむぐ」。中溝さんにとって、音楽が言葉よりも雄弁に思えた。そして、「その瞬間の音楽を表現していく」ジャズの世界のとりこになった。
卒業後は、独自に演奏活動。地元船橋での音楽教室講師の傍ら、宮之上のツアーに参加し歌唱力を磨き、浅草でのグランプリに結びついた。
「私が歌っていられるのは周りの人のお陰」。今、一歩一歩、前進する手応えを感じている。
◇ ◇ ◇
3月27日14時、葛飾公民館で宮之上貴昭のギターにのせてコンサートを開く。整理券配布中。пi437)5072同館。
千葉国体のテニス競技の監督として指導にあたる
秋山礼美さん
育成の主眼は「勝利への
執着心と周囲への感謝」
「自分のプレーを貫けば、結果は出る」。ピンチに立たされた選手に送った声援は、特別な言葉ではなかった。
昨秋の新潟国体テニス競技少年女子決勝戦、千葉県は愛知県相手に、小和瀬麻帆選手が勝利。続く美濃越舞選手が勝てば千葉県優勝が決まる。そのプレッシャーか、美濃越選手は、相手に5―7とリーチをかけられ、迎えたゲームも0―40とマッチポイントを握られた。ところが、ここから踏ん張り4ゲームを連取。千葉にとっては国体同競技、20年ぶりの優勝をもたらした。
流れを変えたのは、ピンチに投げかけた冒頭の監督の声援だった。コート上での孤独の戦い、そこにかけられたひと声で、美濃越選手は我に返った。言葉を受け入れる選手の素直さは、練習で培ったコーチとの信頼関係以外の何ものでもない。
「勝利に対する執着心と、周りへの感謝を忘れなかった」。これこそ、秋山さんのコーチとしてのポリシーが選手たちに浸透した結果だ。
四街道市生まれ。父・芳洋さんの勧めで幼少からテニスを始めた。自宅にテニスコートを設け、地域のクラブチームまで立ち上げる熱心さには、今も頭が下がるという。
自身は4年間、プロテニスプレーヤーとして国内外で活躍。国際試合で印象に残ったのが、途上国の選手の「身体ひとつで挑んでくる」強い精神力。それが、秋山さんの「選手育成」の基本となっている。
現在、習志野市スポーツ振興協会の指導専門職員として、子どもたちの運動の能力を引き出す「コーディネーショントレーニング」に取り組んでいる。
千葉国体について「地元開催だけに、その期待に応えたい」と気を引き締める。本日13日、昨年より7ヵ月早く、強化合宿を始める。
未来から借りた森 保全は自らの使命
森林ボランティアグループ「こぴすくらぶ」会長
中嶋守男さん
手つかずの森を、その土地の所有者に代わって保全、整備するNPO法人「こぴすくらぶ」の会長を務める。昨年10月、「都市部での計画的」な活動が評価され「間伐・間伐材利用コンクール」で最優秀賞の林野庁長官賞を受賞した。
「ゴミ拾いからはじめた。地道にやってきたことが評価されてうれしい」と受賞を率直に喜ぶ。
エネルギー源の変遷や所有者の高齢化など適正な整備と保全が難しくなった日本の森。「こぴすくらぶ」では05年、「船橋市森林施業計画」の認定を受け、市内の森の保全、整備を開始。現在は豊富地区に点在する約102f、43人の所有者と契約を結び、下草刈りや除間伐を行っている。
東京下町育ち。「ずっと森へのあこがれ」があった。以前は月に2、3度登山に出かけ木々と触れ合った。森林に囲まれるだけで「もやもやした気持ちがスーっとする」とその魅力を話す。
これまで林業に携わったことはなかったが、定年を機に地元の森林ボランティアに参加した。
初めてチェーンソーを手にし「木を切り倒した時は快感だった」。今では育成する樹木を傷つけないように計算し除間伐を行う腕前だ。
「散歩で通る人に『ここきれいになったね』と思ってもらえれば」
趣味は「陶芸」。自分の作った陶器で「一杯やるのが楽しみ」という。
これまでに全体の面積の約半分の整備が完了したがまだ先は長い。
「森は祖先から譲り受けたものではなく、未来から借り受けているもの」。森を守ることは「自分の使命」だと思っている。
「昼は人、夜は歴史」その対話の日々が心地いい
歴史の魅力を伝え続ける東邦大付属東邦中高教諭
山岸良二さん
NHKドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)放映に合わせ、本日、開催される『地域にひらかれた文化講演会―習志野と日露戦争』の実施委員長を務める。 東邦大付属東邦中高は、大久保駅から徒歩15分ほど。同作品の主人公の1人であり「日本騎兵の父」と呼ばれる秋山好古が率いていた騎兵旅団第15連隊が置かれていた場所にある。
この機会に身近な歴史をとおし「普段からお世話になっている、地域の人々に楽しんでほしい」という。
専門は日本考古学。教壇に立つ傍ら「独鈷石」と呼ばれる縄文特殊石器の研究に励むなど、考古学に関する著書も多い。
教諭になったのは「吸収力のある生徒」たちに興味を持ってほしかったから。
「昼は人、夜は歴史との対話の日々が心地いい」
東京・品川生まれ。実家は文久3年(1863)創業の塗装業で「職人に囲まれて」育った。「一流を目指せ」と幼いころから「本だけ」は惜しみなく買い与えられた。
中でも興味を持ったのが「歴史」。その「ダイナミックさと人々の知恵」に夢中になり、小学2年で雑誌『歴史読本』を愛読した。
歴史には「ロマンがある」。指揮者によって音楽が異なる様に「解釈により変化する不確かさ」が面白い。また「新発見や科学の力で歴史が変わっていく」のも魅力だ。
自分の目と耳で確認しないと気がすまない性格で「現場主義」を貫く。休み時間は極力教室に足を運び生徒たちの表情をうかがう。またこれまでに教え子たちの志望校全国96大学を訪ね歩いた。
同僚には驚かれるが「集めて無駄になる情報はない」。
◇ ◇ ◇
本日13時から好古の私生活などを語る。同校セミナー館4階視聴覚大ホール。無料。申込不要。
会話楽しむ女性たち
ひと時の非日常演出
30周年を迎える女性専用カフェ「緑の星」の店長
広瀬祥茂さん(24)
船橋駅から徒歩10分、居酒屋が並ぶ横丁に、女性限定の喫茶店がある。
「いらっしゃいませ」
店のドアを開けると、ソプラノボイスで広瀬店長が迎えてくれる。客も店員も女性ばかりのなかで、広瀬さんが唯一の男性。紅一点ならぬ“緑”一点だ。
「誰もやっていないことをやる」
そんな商い哲学で、30年前、父の満さんが店を始めた。
当時、喫茶店といえば、男がタバコをふかしながらスポーツ新聞を読みふける、というのが典型的風景だった。
「ならばその逆を」と広瀬家流あまのじゃくで生まれたのが、「女性専用喫茶」。4年前、祥茂さんが店を継いだ。
仕事を始めてみると、男性の自分では気付くことができなかった「女性ならではの視点」が新鮮だった。
例えば、店の名物となっている、230種類のカップから自分の好みのものを選ぶシステムは、「男性なら面倒と思うことも、女性は楽しんでしまう」。
店内に置かれた流木やコケ、熱帯魚、パワーストーン…、と女性のための、ひと時の非日常を過ごす空間を演出する。
目指すのは、「女性が少女のようになれる店」。
男性の目がないことで、伸びのびと友との会話を楽しむ女性たち。「箸が落ちてもおかしかった」あの頃の、屈託のない笑顔が店内に充満する。
伝統の技術を維持し「糸切り製法」に磨き
現代の名工を受章した「春日野」の和生菓子職人
夏坂實さん 1本の糸を巧みに操りようかんに曲線を刻む。ものの数分でみごとな菊の花を咲かせた。
10日、卓越した技能を持ち、その道の第一人者に贈られる「現代の名工」に選ばれた。
内心のうれしさを抑えるように「大げさなのはちょっと」と、謙虚さをうかがわせた。
「糸切り製法」と呼ばれるその繊細な技能と、後進の育成に尽力している点が評価された。
青森県出身。「とにかく手に職を」と17歳で地元の和菓子店に弟子入りした。当初は和菓子作りに特段魅力を感じていたわけではなかったが、次第に「作ることに喜びを感じるようになった」
「もっと技を磨きたい」と22歳で上京。数軒の和菓子店で修行を積んだのち独立。30代半ばで鎌ケ谷に店を構えた。
常に意識するのは「お客さんの顔」。伝統ある和菓子であっても「新しいものをやっていかなければ…」。
従来の直線的だった「糸切り製法」を曲線にすることで表現の幅を広げることに成功した。
店内には本物の生け花と見間違えるほどの飾り菓子やむきかけのみかんなど、四季を表現した個性的な作品が並ぶ。
和菓子職人は「夢を与える仕事」だと思っている。「お客さんに楽しんでほしい」。
「普段はおおらかな性格だが菓子作りのことになると妥協しない」と長年共に店を支えてきた妻・多恵子さんはその仕事ぶりを。
趣味は特にない。「ずっとこれ(菓子作り)だけをやってきた」。今は修行にやって来る3人の弟子の成長を見守ることが楽しみだ。
後進に技を伝えながら、健康が許す限り作り続けたい、という。
慣れ親しんだ風景の中にある“萌え”
町なかの面白いもの≠発見するフリーライター
大山顕さん
「見慣れた風景の中には面白いものが溢れている」
工場の景観をモチーフにした写真集「工場萌え」をはじめ工場、団地、ジャンクションなど、その魅力を独自の視点で発信する。
地形や立地条件、使用目的など「ままならない理由」によって生み出された武骨な「形」が萌え<|イントだ。
「歴史やノスタルジー」に興味はない。あくまでこだわるのは「形」と言いきる。
機能を追求した工場や住宅需要の急激な増加に伴い建設された公団住宅。その飾り気のない「素」の姿が魅力なのだという。
西船橋育ち。野山で遊んだ記憶はない。遊び場といえば工場の倉庫や工事現場。それが「当たり前」の景色だった。
大学では工業部工業意匠学科で環境デザインを専攻。自分の慣れ親しんだ風景が「一般的に好まれるものではないのか」と気づいたのもその頃。
そういうものを「撮ったら面白いんじゃないか」。
写真集を出版して「長年通勤していた電車の車窓から見える、町の景色が美しいものだと気づいた」という読者からの反応がうれしかった。
「もっと自分の住む街を見てほしい」。思い込みで知った気になっているのはもったいない、と。
昨年から「フォトワークショップ」を開催している。一般的なカメラ技法のレクチャーではない。ルールは「自分探し禁止」「きれいな写真禁止」。あらかじめ「撮るモノ」を決め、町の中を探し歩く。「しつこく同じものを撮り続けることで見えてくるものがある」。
今月24日、新刊を出す。タイトルは「共食いキャラの本」(洋泉社、1050円)。とんかつ店のキャラクターがコック帽をかぶった豚って「こっけいでしょう」。
自らの目や耳で確認して
子どもたちの世界広げたい
昭和基地から「南極授業」を行う大久保小学校教諭
長井秀子さん
「子どもたちの世界を広げたい」
来月24日に出発する第51次南極観測隊に現役の教員として同行する。昭和基地から衛星回線を使い「南極授業」を実施。「観測隊員はどんな仕事をしているのか、南極にはどんな生きものがいるか」など、同校を含めた国内数ヵ所に遠隔地からの情報を伝える。
今年4月「南極から授業する先生募集」の新聞記事に目が留まり、応募した。「ずっと憧れていた南極」。派遣は4ヵ月と長期にわたるが「少しの迷いもなかった」。
独自の授業計画案が評価され、全国18人の応募者の中から選ばれた。
幼いころ、祖母宅の近くのプラネタリウムに通った。上映内容は1ヵ月間同じだったが「飽きずに見上げていた」。中でも、夏は太陽が沈まず、夜中でも薄明るい「白夜」に心奪われ、南極の空に思いをはせた。
大学で地学を学び、卒業後間もなく結婚。娘2人を出産した。
「何でも自分の目や耳で確認したい」。流星群が見られると聞いては「眠りたがるわが子の手を引いて遠出した」。
34歳のとき、臨時講師として「夢だった」教壇に立った。その後、小学校教諭の免許を取得。昨年、大久保小に赴任した。
先日、担任を受け持つ5年生のクラスで、手づくりの地図を使い南極に関する授業を行った。 「先生の乗る船は、どうしてオレンジ色なの」「観測隊のごはんやお風呂はどうするの」
子どもたちの素朴な問いに、「いい質問だね」。教え子たちを見る目が優しい。
先輩ママとして役に立ちたい
キャリアカウンセラーとして「働く母親」を支援する 菰田明子さん
「仕事と子育てを両立する母親たちの力になりたい」。先日、育児休業中の母親らを対象に講演を行った。
職場復帰した際に「会社に自分の居場所があるのか」「休業前と同じように仕事がこなせるか」「子どもと接する時間は…」など母親たちの不安は尽きない。
そんな悩みを抱え、集まった母親たちに、「自分自身の気持ちが大切。(仕事と子育て)両方をできることは素敵な選択」とエールを送る。
2児の母で精密機器会社に勤める現役のワーキングマザー。
独身時代、勤めていた会社でリストラにあった。ショックは大きかったが「自分の将来について真剣に考える機会」になった。「私はやっぱり仕事がしたい。将来、母親になっても」。
その後、現在の会社に転職。結婚、出産を経験し、2度の育児休業を取得した。
仕事と子育ての両立は時間的制約に加え精神的な気苦労も多い。会社にとって「自分は戦力になっているのか」悩んだ。
子どもに対しても「病気の時くらいはそばにいてあげたい」と後ろめたさを感じていた。
そんなジレンマの中「自分の人生を見つめ直したい」と以前に受けた、キャリアカウンセリングのことを思いだし、学んだ。広い視点から自分を見つめることで「気持ちが楽になっていった」。
06年にキャリアカウンセラーの資格を取得した。「人前で話すことは苦手」だが先輩ママ≠ニしての自身の経験を生かし「同じように悩む人たちの役に立ちたかった」。
休日には市内の公園で夫、子どもたちとのんびり過ごす。
出勤前、寂しさをこらえ「ママお仕事頑張ってね」と見送ってくれる息子のためにも「誇りと自信を持って働きたい」。
「キャリアカウンセラーとしてはまだまだ」としながら、「等身大のママとして身近に感じてもらえれば…」。
自分の気持ちに正直になってみた
世界を旅し子どもたちの笑顔を描く
黒木皇さん(27)
「描くのは、本当の笑顔」
東南アジアや中東、東アフリカなど、旅先で出会った人々の笑顔をスケッチしている。3年勤めた会社を辞めて08年8月に日本を旅立ってから、訪れた国は30ヵ国以上。ノートは4冊になった。現在、一時帰国中で、希望する学校で、旅の報告授業を行なっている。
黒木さんの言う「本当の笑顔」とは、心が通じてこそ見せてくれる「自然で無警戒な」笑み。
笑顔と出会うコツは、「現地の人と寝食を共にすること」。観光地を通過する旅ではなく、同じものを食べ、仕事を手伝い、一つ屋根の下で寝る。そうして出会えた笑顔は、「言葉や肌の色の違いを超えた証」。さらに、描いた絵を「喜んでくれる」ことが、次の絵を描く原動力になっている。
スケッチ旅行へ発つきっかけは、父の寿命が残りわずかだと判明したこと。
「自分の人生もあと30年だとしたら」と「初めて真面目に人生を考えた」。そして出てきた答えは「絵と旅が好き」。世界をもっと見てみたいという好奇心と、小さいころから絵を描くことが好きで将来の職業にしたい気持ちに正直になった。
笑顔の旅で見えてきたことがある。
「世界で一番笑顔が減っている国は日本ではないか」
物質の豊かさと反比例する自殺やうつの増加。「世界には、電気や水道が無くても笑顔の絶えない国があるのに」。
数年後に旅を終えた後、絵の仕事に就けるかどうかは分からない。
「今は、自分のやりたいことをやっている。それで人を喜ばすことができる」、そのことを大事にしたいと考えている。
順風満帆の商いの傍ら捨てられぬ絵描きの夢
「YOSAKOIかまがや」のフラッグをデザインした
長谷川満さん(64)
本日開催される「YOSAKOIかまがや」。その商工会大賞チームに贈られる大賞旗のデザインを3年連続で任された。
今年のテーマである「漲る(みなぎる)」の文字を、「人々の踊り跳ねる様子をイメージ」して表現した。100枚ほどの下絵から1枚を選んだ。「受賞者に誇りに思ってほしい」気持ちを込めて。
画家でも、デザイナーでもない。くぬぎ山などで青果業を営む。
青森県の農家に生まれ、「祭りは身近」だった。ねぶた絵の模写など、幼少からその画力は近所でも評判だった。
10代で「絵描きになろう」と上京。青果店で働きながら絵画を学んだ。
24歳でコンクールに入選。「これでやっていける」と自信を深めた。ところが、画家志望の息子に投げかけた母親・サキさんの「あなたは商売に向いている」の一言に迷った。結局、「後ろ髪をひかれる思い」で、「商売人として生きていく」ことを決めた。
70年に滑ロ長青果を創立。母の眼力を証明するように、店は急成長した。途中、小売から卸売に転換するなど、社会の動きをいち早くキャッチする「商才」ぶりを発揮。「契約栽培」方式を導入し「価格と供給の安定」を図るなど、取引先の信頼も厚い。
一方で「好きな絵もやめられなかった」。依頼があれば本業のかたわら、寺院の天井や飲食店の壁などに描いた。その作品が話題を呼び「描いてほしい」という依頼は現在でもひっきりなしだ。
頼まれると断われない性格だが「喜んでもらえればそれでいい」。
移動時にはメモ帳を持ち歩き、ヒントやアイデアを書き留める。
斬新な発想で、人の「喜ぶ顔」が見たい。
「うまさ」と一緒に伝える蔵元の思い
日本酒きき酒師で酒店の3代目
矢島幹也さん(32)
「日本酒を知らなかった人がうまいと言ってくれる、その一言が最高」
「知らない人に伝える」技として「きき酒師」の資格を持つ。現在、店舗には日本酒を中心に全国の60の蔵元から250種をそろえる。その中から、誰とどんな場面で和洋中のどれを食すか、予算に合わせてぴったりの一品をチョイスする。
それができるのは、どの酒も「蔵元の顔を知っている」から。店に置く酒は全て、矢島さんが蔵元へ通って仕入れた。「蔵元とは人間関係を築いてから取引する」のがモットーで、過去には、直筆の手紙を送り3年間飛行機で通ってようやく置けた1本もある。だから、県内で扱っているのは「ここだけ」という酒も珍しくはない。
以前は日本酒に全く興味がなかった。「日本酒といえば、オヤジがのむイメージ。頭が痛くなると思っていた」。
しかし、家業を継ぐ運命。そのために、住み込み修行した酒屋で日本酒を勧められた。おそるおそる口にしたその1杯。「口のなかでふくらみ、飲んだ後はすっとさわやか」。以来、日本酒のとりこになった。
「酒屋は、蔵元の思いを伝える『伝道師』」
蔵元が、原材料にこだわり半年かけて生み出す一滴が日本酒。ビールやワインブームに押され気味の日本酒だが、その奥深さを幅広い層に知ってもらいたいという。
9月には、船橋で蔵元を集めた試飲会を開く。
無限大の表現手段に魅せられて
本出版や展示が続く万華鏡作家 酒井祐子さん
12日からの、「ふなばし現代アート展アラカルト」(船橋市民ギャラリー)に万華鏡を出品する。先月は、作り貯めた作品から、「こどもの手作り万華鏡」(ブティック社)が出版された。
「原理は単純だが、表現は無限大」。そんな万華鏡に魅せられて10年、いま「自分にとってぴったりの表現方法が見つかった」と実感する。
小さいころから絵を描くことが好きで、東京学芸大でグラフィックデザインを専攻。芸術家、それとも教員…。なぜか、卒業後の自らの将来像を描けなかった。そんな折、万華鏡の美術館を訪れた。人間それ自体が中に入って見る巨大なものや、美術品レベルの凝った装飾の作品を目にして、「丸い筒状で和紙が貼ってある」という、それまでの万華鏡に対する固定概念が崩された。
以来、「ドキドキしながらのぞいて、その度に発見がある」万華鏡が自己表現の手段となった。
「カワイイ宝物のような万華鏡を」と、作ったのが、穴をのぞくと「HAPPYBIRTHDAY」の文字が輝く万華鏡。立方体でリボンがあしらわれたプレゼントボックス型で、思わず「カワイイ」と叫んでしまう、ポップさが新鮮だ。
ほかにも、外見はピアノの鍵盤模様でのぞくと音符が踊っているもの、友だちと一緒にのぞくことができる大型のもの…。無限大の表現手段で次々に生まれる作品。手に取った人の「わあ」「おお」という声が、次の創作への原動力になっている。
こだわり放つと そこに、あった
オリジナルのダンス「風の舞」ワークショップを開く 中村涼子さん
こだわりを放つと、「呼吸するように」自然な踊りが生まれてきた。そんな自分の踊りを「風の舞」と名づけた。「風は、地球の呼吸のようなもの。地球の一部である自分の呼吸も、その風とつながっている」と感じた。
50代の初めだった。それまで30年以上も続けてきたダンスだが、燃焼し尽したかのように、心身の閉塞感に見舞われた。
ダンス教室を閉じた。その後、ヨガや民俗芸能、朗読など多様な表現に取り組んでみた。並行する更年期、「頭は動いても体がついていかない」もどかしさに苛立った。
還暦を迎えるころだった。霧が引いていくように体が軽くなり一つの思いに至った。
「私は、地球という巨大なパズルの1ピースでしかない」
自分らしさにこだわる余り、肩に力が入り過ぎていた。体が自分の力ではどうにも動かない体験を経て、自分の存在の小ささに気が付いたのだ。
高校時代、舞踏家の江口隆哉・宮操子夫妻と出会いダンスの虜になった。昭和初期、ダンスをドイツから日本に持ち帰り一般に広めた夫妻だ。高卒後、宮の元で5年間「即興で踊る楽しさを学んだ」後、自宅にスタジオ教室を構え、ダンス普及と子育てに勤しんだ。
「自分という器に閉じこもり過ぎて動けなくなっている人にダンスを通して、自然体で生きる自信をつけてほしい」
今、中村さんのもとには50〜60代の女性が通い、頭から心を解き放った自らを楽しんでいる。
ワークショップは、7月23日17時半、船橋市勤労市民センター。無料。TEL(457)3771。
自分にしかできない音楽を模索して
日本木管コンクール1位に輝いた
竹山愛さん 1位で自分の名前が呼ばれたとき「信じられない思い」がした。
「本選までは絶対にすすみたい」と臨んだコンクールだったが、結果は「まさか私が」だった。
フルートを手にしたのは、鷺沼小4年の時。「歌や踊り、パフォーマンスが好き」で吹奏楽部に入った。習志野高から東京藝大に進学、その間、各種のコンクールで上位入賞の実績を残した。
「コンクールは評価される場だが、審査員だけではなく会場にいる皆さんに、音楽の楽しみを伝えるステージでもある」
リサイタルと同じように演奏した結果が成績につながったという。
フルートを持つ時は常に、「自分の言葉で歌いたい。曲の背景を考えながら、自分にしかできない世界を表現したり、気持ちを伝えたりしたい」と心がけている。
現在、さまざまな分野の音楽をアレンジし、フルートや歌などで即興を交えて披露する「Cocroach Eater」に参加している。7月にCD発売を予定しているグループで、竹山さんにとって、好きなパフォーマンスができる場だ。
木管コンクール後、ステージに上がる機会は増えた。「今まで以上に演奏に責任を感じる」。
「うまく表現できないときはもどかしい」。表現方法を工夫する。そして、やっと解決。それが喜びとなって更なるエネルギーを生む。
修士課程2年。まだ将来を模索しながら、音楽に没頭する毎日だ。(6/27掲載)
五感澄まし本質探る 独自のスタイル確立
モナコ政府主催芸術 祭で芸術褒章を受章 中村克子さん
受章作は「いのち誕生〜愛を育てて」と題した水彩画。光のような淡い色彩で「母体の中の胎児のエネルギーを表現した」という。「作者の笑顔のようにやさしさが溢れている」と評価された。
心理療法に用いられるアートセラピーの手法で描いた。音楽をかけながら絵筆を握り、「音から感じたものを素直に」描く独自の表現方法。作品のテーマとした「いのちのうた」(鶴岡千代子作詞)という曲は、92年、33歳の若さで、がんで亡くなった長女の礼子さんの部屋で見つけた。
長年、習志野市の公民館長を務めた。音楽好きが高じて童謡サークルを発足させたり、油絵サークルに参加するなど、常に市民と接してきた。その間、習志野文化ホールのどん帳を手がけた日本画家の時田直善氏と出会い、「描く楽しさを知った」。
礼子さんが亡くなったのは、定年退職直前だった。「何にでも一生懸命だった」愛娘の旅立ちに「身が削られるような苦しみ」が心を蝕んだ。
しかし、「自分は生きている」以上、落ち込んでばかりはいられない。
ある日、はたと思い出した。礼子さんが幼少の頃に通っていた「音楽を聴き絵を描く絵画教室」のことだ。楽しそうに描いていた礼子さんの姿が蘇った。退職後勤めた福祉専門学校の生徒に、同じ体験をさせたいと学んだのが、音楽療法、アートセラピーだった。
例えばリンゴを描くときは、童謡『りんごのひとりごと』を歌いながら筆を動かす。「栽培過程を知り、手に持って匂いを嗅ぎ、食べてみる」ことで、リンゴを理解する。
「五感を頼りに体に耳を澄ませ、本質を見つめて描く」、そう、自己の表現スタイルを集約する。(5/23掲載)
学びに飢えた子どもがあふれていた
「カンボジアに学校を作る会」を発足した 柴田輝雄さん
「現地の子どもたちの手助けをしたい」 。先月、8人のメンバーとともに会を設立した。現在では途上国の支援活動を行う団体は少なくない。「みな気持ちは同じ」と他県2団体と協力し、寄付金を募る。
元小中学校教諭。中学では社会科の担当で、カンボジアの状況は以前から気にかけていた。定年後、知人を頼り「観光のつもり」でカンボジアを訪れた。そこで「物売りをする子ども」と出会った。「学校には行っていないのか」「教育現場はどうなっているのか」。元教諭の心に火がついた。
その足で地方の学校を訪ね歩いた。そこにあったのは教材教具が不足し、屋根に穴の空いた教室だった。そして「学ぶことに飢えた子どもたち」があふれていた。
4年かけ、妻・和子さんとともに学校建設の準備を進めてきた。途中、悲惨な内戦の爪跡も見聞きした。「過ちを繰り返さないためにも、教育が必要」だと感じた。
建設場所は、首都プノンペンの北西に位置するコンポントム州のプム・トナル小学校。30校ほど視察した中で「ここが一番ひどい状況だった」。
「大それたことをするつもりはない」。ただ「学ぶ手伝いがしたい」。
現在集まった資金は目標額の半分程度だが、すでに工事を始めた。
自ら「全額を負担する」ことも考えた。だが、「募金」という形で「多くの人に現状を知ってもらいたかった」。
完成前には再び現地に足を運ぶつもり。学校を心待ちにする子どもたちの笑顔が待ち遠しくて仕方ない。(5/9掲載)
|